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映画の文法−小栗康平監督『埋もれ木』を「読む」
この映画のタイトルが由来する「埋没林」を本当に出現させるとは予想していなかった。驚いた。そして、
感激と同時に少し哀しくなった。
『身体感覚を取り戻す』の著者・斎藤孝明大教授と小栗監督の対談「贅沢な映画の観方」 を某サイトで見つけ、それをあらかじめ読んでいたので、いわゆる「ストーリーらしいストーリーのない」つくりだということは心していたので、そこは素直に入っていけた。(こういう前知識なしに観た人はどう思ったか。監督の名前だけであるいはタイトルにただ惹かれて見に来た爺様婆様には多少辛いものがあったか。そうでもなかったか。絵はとにかく美しいので。台詞もレーゼドラマのようであるし)。どんな映画でも「後付け」のプログラムという印刷物がつきものだが、前知識「前付け」があってもいいのではないか、そういう映画があってもいいのではないか、と思わせてくれるものが『埋もれ木』にはある。ネタバレは勘弁だが、大人の現実と子供の夢(物語)が大団円で織り合わされていく、というシネマライズのウェブにあったシンプルな解説も適切な前付けだろう。(終わりは始まりという円環を暗示して終わるので、正確にはこの映画には「大団円」はないのだが)。
それだけで(対談と合わせて)、ポップコーンほおばるのやめて、観る側が物語を繋ごうという姿勢になれる。それは文字で長編を読むときには常に起こっている働きで、さしかかった場面の伏線をページを後戻りして確かめたりする。そういう入り込みの余地を意図的に空ける作りの映画だ(こういう作り方はかつてあっただろうか。カットアップとも違う。タルコフスキーの水でもない)。
だが、そこを作り手も意識して、かえって「説明的」なカットなどを入れすぎている印象もある。
新人二人に、難しいほとんど台詞のないシーンを演じさせ、ここがなぜこんなに長回しなのか、あきらかに編集の失敗ではないかと思えるような箇所もいくつかあった。
しかし、埋没林を「発掘」し、そこへ町の人々が降りていき、巨木の林を見上げるシーンはわくわくさせた。鯨のバルーンは、あれこそ、もっと長回しで、高く高くのぼっていくところを見せてほしかった。
映画「埋もれ木」より農道を爺様、婆様、こども、大人、少年たちが一緒になって「愛して頂戴ね」を歌って歩くシーンは、わけ知らず涙が込みあげてきた。
だから、しかし、贅沢は言えないのである。監督は、そのあたりもひょっとするとすべて見せてしまおうと意図したのかもしれない。つまりあれが限界なのだと。「限界のなかで、これだけやれる」ということを伝えたかったのかもしれない。
「日本映画の努力」というものを。

まったくジャンルは違うが、そのメッセージに、『シモーヌ』という映画を思い出した。アンチハリウッドなハリウッド映画だった(詳細はいずれ)。

ともあれ、久々に映画の文法というものを想起させてくれた映画だった。
なによりも、「いいものをみさせてもらった」という感慨が消えずに残る。
こういうことはめったにない。いや初めての映画かも知れない。
気持ちのいい、いい日和の一日を過ごすことができた。

「じゃあ、またね」。


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