美学芸術学 | 本と映画とキーボード、そしてもっとほかの何か。

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本と映画とキーボード、そしてもっとほかの何か。

映画・映像、本etc、そして物語に登場するグッズやモノについて。その他これは面白い!という関連グッズ、ツールやサービス、キーボードで出来ること色々。

Happy Hacking Keybord

Keybordスティーブン・キングの短編『神々のワードプロセッサ』の時代のキーボードはEnterではなくExecuteと刻印してありました。本はもちろん映画やドラマでも制作現場でプログラミングが実行されています。コーディングは物理キーボードで。タッチパネルでは無理です(笑)。
 

CM放送中

という言葉が、ウェブ、オンラインショップではセールスページの「キャッチコピー」になってるようで。ってことは、CMは見てないけどウェブ上でネットショップにたどりついた人への念押しなのか、それとも「つづきは検索で!」でやって来た人のための確認なのか。たしかDHCだったと思うけど、あれは確かニキビだったような・・・



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販売価格 : 2,600円(税込)
平均評価 : 5 / 5点(208件
送料別 / 在庫有
ポイント : 1倍
クレジットカード : 利用可
ショップ : DHC楽天市場店


カミさんに聞いたら、なんであれこの9月は「肌疲れ」を癒す時期なんだと。 こっそり買ってプレゼントするなんつーご奇特な旦那さんには、ネットショッピングは便利かも。 女性向けの化粧品店を男がウロウロするのは、ちょっと勇気がいるので(笑)
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映画の文法−小栗康平監督『埋もれ木』を「読む」

この映画のタイトルが由来する「埋没林」を本当に出現させるとは予想していなかった。驚いた。そして、
感激と同時に少し哀しくなった。
『身体感覚を取り戻す』の著者・斎藤孝明大教授と小栗監督の対談「贅沢な映画の観方」 を某サイトで見つけ、それをあらかじめ読んでいたので、いわゆる「ストーリーらしいストーリーのない」つくりだということは心していたので、そこは素直に入っていけた。(こういう前知識なしに観た人はどう思ったか。監督の名前だけであるいはタイトルにただ惹かれて見に来た爺様婆様には多少辛いものがあったか。そうでもなかったか。絵はとにかく美しいので。台詞もレーゼドラマのようであるし)。どんな映画でも「後付け」のプログラムという印刷物がつきものだが、前知識「前付け」があってもいいのではないか、そういう映画があってもいいのではないか、と思わせてくれるものが『埋もれ木』にはある。ネタバレは勘弁だが、大人の現実と子供の夢(物語)が大団円で織り合わされていく、というシネマライズのウェブにあったシンプルな解説も適切な前付けだろう。(終わりは始まりという円環を暗示して終わるので、正確にはこの映画には「大団円」はないのだが)。
それだけで(対談と合わせて)、ポップコーンほおばるのやめて、観る側が物語を繋ごうという姿勢になれる。それは文字で長編を読むときには常に起こっている働きで、さしかかった場面の伏線をページを後戻りして確かめたりする。そういう入り込みの余地を意図的に空ける作りの映画だ(こういう作り方はかつてあっただろうか。カットアップとも違う。タルコフスキーの水でもない)。
だが、そこを作り手も意識して、かえって「説明的」なカットなどを入れすぎている印象もある。
新人二人に、難しいほとんど台詞のないシーンを演じさせ、ここがなぜこんなに長回しなのか、あきらかに編集の失敗ではないかと思えるような箇所もいくつかあった。
しかし、埋没林を「発掘」し、そこへ町の人々が降りていき、巨木の林を見上げるシーンはわくわくさせた。鯨のバルーンは、あれこそ、もっと長回しで、高く高くのぼっていくところを見せてほしかった。
映画「埋もれ木」より農道を爺様、婆様、こども、大人、少年たちが一緒になって「愛して頂戴ね」を歌って歩くシーンは、わけ知らず涙が込みあげてきた。
だから、しかし、贅沢は言えないのである。監督は、そのあたりもひょっとするとすべて見せてしまおうと意図したのかもしれない。つまりあれが限界なのだと。「限界のなかで、これだけやれる」ということを伝えたかったのかもしれない。
「日本映画の努力」というものを。

まったくジャンルは違うが、そのメッセージに、『シモーヌ』という映画を思い出した。アンチハリウッドなハリウッド映画だった(詳細はいずれ)。

ともあれ、久々に映画の文法というものを想起させてくれた映画だった。
なによりも、「いいものをみさせてもらった」という感慨が消えずに残る。
こういうことはめったにない。いや初めての映画かも知れない。
気持ちのいい、いい日和の一日を過ごすことができた。

「じゃあ、またね」。


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Xanaduと、アルジャーノンに花束を。

Xanaduでは、個人が情報を「出版」するときには集中管理されたサーバーを利用し、一度サーバーに保存されたデータは、永久に保存されることが保証されます。一度出版したら、そのデータは著作者であってもいじることができません。
現在のWWWが「個人の書棚」の情報をみんなで共有するサービスだとすると、Xanaduはさしずめ国会図書館といった感じでしょうか…

このXanaduを提唱した、テッド・ネルソンは、「アルジャーノンに花束を」を映画化した映画監督ラルフ・ネルソンと、女優セレスト・ホルムの間に生まれた。ハイパーテクストやハイパーリンクの概念とアイデアを1960年代に提唱した先駆者と言えるのだが、グッド

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前口上:丸太組み工法舟、WWW洋上を漂流中… 
essay on Web 0001

かつて、文字と図版の集積物である出版物は、編集者によって企画され、著者を人選し、執筆してもらい、あるいは執筆し、必要とあらば撮影・取材を行い、編集・デザインを行なって印刷所に入稿。製本所で本となった出版物は、国会図書館と取次店に「見本」として数部が納品されたあと、書店の棚に陳列され、幸運にも読者を得れば購入されて、その読者の書棚に納まることでパブリッシングの過程を、ひとまず終えた。実にわかりやすい。「私が作ったもの」が今頃、どこに届いているかが、だいたいは見当がつく。トラックバックしなくたって。

ネットの仕組みを発明した欧米人(アングロサクソン)にとってWWWは、海洋のイメージで捉えられているらしい。俺は日本人だが、同意する。どんなに堅牢に構築された大企業のサイトだってなんだって、ウェブページは大海を「漂流する」丸太組み工法舟、すなわち筏である。ときどき誰かが投げ込むアンカーにひっかかって「所在」が知れることもあれば、何日も、その管理人当人にさえ忘れられて、ほっておかれることもある。

昔むかし、CSCWの集まりで通信技術者のボブ・ウェイリーと立ち話して、「通信って不安定ですよね。いつまで経っても」と話をふると、「イエス、繋がるのはほんとに奇跡的(笑)。大波が激しくぶつかって、微細な波のシブキがスコールのように降り注いでくる、巌壁の先端に毎日立ち尽くしているようなものですから」と答えたのが忘れられない。シブキはノイズの例え、ただそのなかのほんの数個の水滴が届きたい、届けたい情報を抱えている。それだけを掴まえて復号化するのが、どんなに大変なことか。WWWが海であるとは、リリカルな比喩だけではないだろう。いつカオスに呑み込まれるとも知れぬオオシケの海を、技を尽くして渡りつき向こう岸に無事届けるというフィジカルなイメージが背景にあるようだ。もっともその時間は大航海時代とは違ってミリ・セコンドの世界ではあるのだが。

なによりもかによりも、ハサミでプッチンすれば海ごと消えるのだ。
この儚さを感じて、俺はときどきハックをやめる。(クラッシャではない)。

そんなフラジャイルなウェブを「墓場まで持っていく」にはどうしたらよいか? 最近しきりに考えるようになっている。

追記:っと、ここでなぜかA・C・スティーヴン監督の『死霊の盆踊り』を思い出した。スティーブンを偲んで、ティム・バートン監督(『バットマン』ほかの)が撮った最高に美しい映画も。というか、『盆踊り』は、バートン監督作品を想起させるための連想フラッグに過ぎないのだろうか? (続く)。

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